共感すること
幾年ぶりか、人の通夜に参列した。
職場の先輩のお父様が御仏に成られた。
つい最近、喪服や黒いコートは手放してしまおうかと考えていたところだったので、人との別れは思いがけず突然だと思い直した。
直近では自分が喪主側であることの方が多かったのと、仕事の都合で遅れていくことになったため、お参りする際ご遺族の方々に粗相したら…と心配が尽きず色々と下調べした。
どのタイミングで袱紗から香典を出すんだった…?
ご遺族の方へ一礼を忘れないか……
どうしても場が場だけに緊張するというか、変に落ち着かないのでイメージトレーニングした。
そして先輩が心配だった。
心から心配だったし、御愁傷様でした という気持ちばかりだった。
食事もとれていないのでは
バタバタと悲しむ暇もないのでは
私が父を亡くしたらどんなに苦しいだろう
きっとお辛かったろう
泣いて眠れなかったのでは
いろんな思いが頭を過ぎり、同時に私自身が祖母や祖父、大切な人を亡くした時のことを思い出していた。
当時のことを思い出すとまた寂しさが込み上げてきた。
きっと同じような思いだろう
なんと声をかけよう…
どんなにか重い空気だろう…
色んな想像をしながら会館へ足を運んだ。
ところがそこにはカクテルパーティーかのような明るい空間が広がっていた。
わいわい賑わう会場にたじろいだ。
流れるプールのような循環性で受付へ流れ着き、あっという間に香典のお供えを終えた。
私には先輩と職場の同僚以外の顔は分からなかったが、そこは悲しみに暮れ涙ばかりの重い空気ではなく、思い出話をしたり身の上話をしたりして懐かしみながら笑顔が溢れるような、そんな和気あいあいと明るい雰囲気だった。
もちろん気も張っているだろうけど…
会館の方に促されるまま、あれよあれよとあっという間にご焼香。
本当に5分かからなかった。
…変な話かもしれないがどのような顔をすればいいかまでイメージして行ったのに(どんな顔をすればいいかわからないということはないのに)呆気に取られた。
先輩とも言葉を交わした。
先輩の顔を見たら涙が出そうになった
先輩は笑っていた
私だけが泣きそうになっていた。
気丈に振舞っているだけかもしれない、
多忙な中の別れ。悲しむ暇も無いのかもしれない。
後輩の手前泣いてなんか居られないのかもしれない…
それでも「来てくれてありがとう」と申し訳なさそうに、嬉しそうに、笑顔で迎えてくれた。
冠婚葬祭は言うまでもなく、その人1人のものではなく親族のルールやカラーがあるので多様であっていいし、それが当たり前だと思う。
“通夜”のイメージは私の中にあったものでしかなく、ご遺族の方々がその空間を良しとするのであればそれで良いのだ。
共感って難しい
私は先輩が、私と同じように大切な人を亡くしたあの時の気持ちになっているだろうと勝手に想像していたに過ぎなかった。
人それぞれ、故人との思い出や、その関係は違うのに。
本当にお悔やみを伝えるとき、それは「私が過去悲しかったから同じように悔やむ」のではなく、「先輩と故人に対して」悔やむべきだった。
他人、友人、家族、とにかく人が行動して、あるいは何かの出来事に立ち会って、その時その人が何をどう感じたのかを聞かされた時、その人の気持ちを“分かろうとする”のは大切なことだけど、その人の気持ちを疑似体験して悲しい気持ちになったり、嬉しい気持ちになったりするのは、悪いとは言わないけれど良いとも言えないのかもしれないと思った。
聞かされた話の事実を受け止めて、“私が”どう感じたのか という私自身の気持ちが大切で、“私だったらその時どう思うか”を想像するのとはちょっとちがう。
結果として、相手と同じ気持ちだったらそれはそれでいいだろうし、違ってもいいのだ。
よく「相手の立場に立って考えよう」と言われるけれども、実はそれはすごくすごく難しいことだと思う。
相手の立場に立つ努力をお互いが辞めてしまうことはとても危ないことだけれど、本当の意味でそれを成し得ることは難しいし、常に相手の立場に立てているつもりなら、それは傲慢だ。
勝手に「きっと先輩はこんな気持ちだろう」と想像して、悲しい気持ちを体感していた
そうではなくて、「亡くなられたお父様と先輩」を受け止めて、想っていれば、それで良かったのだ
共感する、というのはとってもシンプルで、難しいと思う
今頃葬儀を終えた頃だろうか
雲ひとつない青空で、寒さの和らいだ今朝は故人のお人柄が現れているようだ
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