SNSをやめた

やめたら今度は吐き出すところがなくなった。自分のためにしかならない備忘録

朝活

「朝活」という言葉に憧れがある。


朝を制するものは人生を制するとかそういう自己啓発本はたくさんあるし、勉強するなら朝勉強がいいと聞いたし、朝からコーヒーを入れたりなんだかおしゃれなYouTuberが生活水準高めの暮らしをしているとか、とりあえず朝活にはいい事づくめな気がしているという浅はかな動機だ。


元々、朝早く起きることは苦手ではない。昔から寝起きの良い子だと言われ続けて、自分も子どもながらにそれを誇らしく思っていた。大人になった今も、主人に比べれば朝起きることはそんなに大変なことじゃない。(主人は放っておいたら夕方まで起きない。脚色ではない)


仕事柄子どもたちと接するため、年末からこの頃特にコロナに振り回され、私は体調を崩してしまった。


疲れたり、ストレスが溜まるとすぐ扁桃炎になってしまう。首から耳までジンジン痛み、何かを飲み込む度に走る激痛。

本当に辛いが、食欲はあった。慣れているので痛がりながらなんでも食べるので栄養面での心配はなかった。


けれど睡眠は違う。身体は眠ることで休息する。30手前になって、回復に異常に時間がかかるようになったように感じる。1日寝れば治るものだったのが、まあ長引く長引く…

昼間に寝たら夜はなかなか寝付けなかったのが、驚くことにいつまでも眠れる。いつ寝ても、何時間寝ても、トイレと食事以外の時間は永遠に眠れてしまった。


身体が圧倒的に休息を求めているのだと痛感した。


それでも毎日、保護者や勤め先からコロナの対応を迫られ続ける日々。

心身参ってしまった。正直朝活どころではない。



できる限り眠りたい、1時間でも長く眠りたいと思っている内は「朝活」など出来るはずもなく。


そのくせ少し体調が戻ってくると、朝ゆっくり寝てしまうと「ああまた起きられなかった」なんて勝手に落ち込む日もしばしば。長く寝ると自分が自分に甘えているような気がしてしまう。

その少しの罪悪感を許せたら、こんなに体調を崩すことも無くなるのだろうに…と、そこまで分かっているのだ。頭では…



しかし昨晩思い切って目覚ましを1時間早くセットした。

今日、ようやく「朝活」する気が起こったのだ。



いつもより1時間早いだけだ。

6時なんて、人によっては早起きだなんて言えない時間かもしれない。



目覚ましを止めて窓の方を見る。カーテンを開けなくてもまだ外の暗いのが分かった。


もうちょっと寝てしまおうか…

体調も良くないし、睡眠をとれる時に取っておいた方がよいのではないか…


色々考えているうちに目が冴えてしまったので諦めて起き上がった。

カーテンを開けると、遠くの空が少し明るくなっていて無事に朝が来ると感じてホッとした。それに、隣や向かい、周りの家の窓もポツポツ電気がついていた。私が眠っていた間にも、もう人々は動き始めている。世界が眠りから覚めて、また静かに始まろうとしているのにすっと心が透明になるような気持ちになった。


当たり前のことに案外新しい感動を覚えた気になって、もう早起きしたことが得意になった。



カア、とひと声

本日最初のカラスが鳴いた。

お、鳴いてるな?と嬉しくなる。朝が来ることを確信しているのに、しんとしていた世界に生き物の気配を感じて何故かとても安心した。


遠くで車のエンジンの音もした。



だんだんと周りの音が増えて、人や町の息づかいをじわじわ感じるなんとも言えない楽しさ。

「もっとねたい」

「いっぱいねたい」

「ああまたこんなに太陽が昇るまで寝てしまった」

そんな残念な朝が、今朝は不思議と特別なように感じさせてくれた。


特別何かをしたわけじゃない。

オシャレなことをしたわけじゃない。

これが朝活なのだろうか。

でも、私の朝はこれで良かったのだと思う。



そんな今日ももうすぐ終わる。

明日も「朝活」できるかは分からないけれど…

共感すること


幾年ぶりか、人の通夜に参列した。

職場の先輩のお父様が御仏に成られた。


つい最近、喪服や黒いコートは手放してしまおうかと考えていたところだったので、人との別れは思いがけず突然だと思い直した。


直近では自分が喪主側であることの方が多かったのと、仕事の都合で遅れていくことになったため、お参りする際ご遺族の方々に粗相したら…と心配が尽きず色々と下調べした。


どのタイミングで袱紗から香典を出すんだった…?

ご遺族の方へ一礼を忘れないか……


どうしても場が場だけに緊張するというか、変に落ち着かないのでイメージトレーニングした。



そして先輩が心配だった。

心から心配だったし、御愁傷様でした という気持ちばかりだった。



食事もとれていないのでは

バタバタと悲しむ暇もないのでは

私が父を亡くしたらどんなに苦しいだろう

きっとお辛かったろう

泣いて眠れなかったのでは


いろんな思いが頭を過ぎり、同時に私自身が祖母や祖父、大切な人を亡くした時のことを思い出していた。

当時のことを思い出すとまた寂しさが込み上げてきた。


きっと同じような思いだろう

なんと声をかけよう…

どんなにか重い空気だろう…



色んな想像をしながら会館へ足を運んだ。


ところがそこにはカクテルパーティーかのような明るい空間が広がっていた。


わいわい賑わう会場にたじろいだ。

流れるプールのような循環性で受付へ流れ着き、あっという間に香典のお供えを終えた。


私には先輩と職場の同僚以外の顔は分からなかったが、そこは悲しみに暮れ涙ばかりの重い空気ではなく、思い出話をしたり身の上話をしたりして懐かしみながら笑顔が溢れるような、そんな和気あいあいと明るい雰囲気だった。


もちろん気も張っているだろうけど…


会館の方に促されるまま、あれよあれよとあっという間にご焼香。

本当に5分かからなかった。



…変な話かもしれないがどのような顔をすればいいかまでイメージして行ったのに(どんな顔をすればいいかわからないということはないのに)呆気に取られた。



先輩とも言葉を交わした。

先輩の顔を見たら涙が出そうになった

先輩は笑っていた

私だけが泣きそうになっていた。


気丈に振舞っているだけかもしれない、

多忙な中の別れ。悲しむ暇も無いのかもしれない。

後輩の手前泣いてなんか居られないのかもしれない…


それでも「来てくれてありがとう」と申し訳なさそうに、嬉しそうに、笑顔で迎えてくれた。



冠婚葬祭は言うまでもなく、その人1人のものではなく親族のルールやカラーがあるので多様であっていいし、それが当たり前だと思う。

“通夜”のイメージは私の中にあったものでしかなく、ご遺族の方々がその空間を良しとするのであればそれで良いのだ。




共感って難しい


私は先輩が、私と同じように大切な人を亡くしたあの時の気持ちになっているだろうと勝手に想像していたに過ぎなかった。


人それぞれ、故人との思い出や、その関係は違うのに。



本当にお悔やみを伝えるとき、それは「私が過去悲しかったから同じように悔やむ」のではなく、「先輩と故人に対して」悔やむべきだった。




他人、友人、家族、とにかく人が行動して、あるいは何かの出来事に立ち会って、その時その人が何をどう感じたのかを聞かされた時、その人の気持ちを“分かろうとする”のは大切なことだけど、その人の気持ちを疑似体験して悲しい気持ちになったり、嬉しい気持ちになったりするのは、悪いとは言わないけれど良いとも言えないのかもしれないと思った。


聞かされた話の事実を受け止めて、“私が”どう感じたのか という私自身の気持ちが大切で、“私だったらその時どう思うか”を想像するのとはちょっとちがう。


結果として、相手と同じ気持ちだったらそれはそれでいいだろうし、違ってもいいのだ。


よく「相手の立場に立って考えよう」と言われるけれども、実はそれはすごくすごく難しいことだと思う。



相手の立場に立つ努力をお互いが辞めてしまうことはとても危ないことだけれど、本当の意味でそれを成し得ることは難しいし、常に相手の立場に立てているつもりなら、それは傲慢だ。



勝手に「きっと先輩はこんな気持ちだろう」と想像して、悲しい気持ちを体感していた


そうではなくて、「亡くなられたお父様と先輩」を受け止めて、想っていれば、それで良かったのだ



共感する、というのはとってもシンプルで、難しいと思う



今頃葬儀を終えた頃だろうか

雲ひとつない青空で、寒さの和らいだ今朝は故人のお人柄が現れているようだ

雨が上がって

昔、晴れたらいいね という番組があった。

私はお天気の日が大好き。

冬、窓からじわーっと太陽が部屋の中を明るく照らしてくれるとホッとするし、その日差しを背中や肩や、身体のどこかで浴びてポカポカ暖まると幸せになれる。


今朝は昨晩からの雨がまだ降り続いていて、出かける頃には止んだけれどもまだ太陽は隠れたままだった。


本当に心細かったし、起きた気がしなかった。

太陽が出ていないと夜が明けた心地がしなくて。


私の好きな人は、皆雨が好きだという。(夫はちがうようだが)


江國香織さんは、雨が降ったら雨を見に行くほど雨がお好きだとエッセイに書いてあった。

雨の匂いや音が好きなのはなんとなく分かる気がするので、私も雨を好きになろうとしたことがある。雨を好きになれるかも、という気持ちと、雨の日が好きだと言えることになんとなく格好良さを感じて、自称雨好きになろうと試みたことがあった。


でもどうしてもお日様を見られないと私は安心できなかった。

雨が降れば早く止まないかなと思うし、雨が上がってまだ厚い灰色の雲が空を覆うそのほんの隙間から青空が見えた時心が笑顔になるのを感じる。


やっぱり私は雨好きには成れない。



北欧圏の冬は日照時間が少なすぎるために、ビタミンDの生成が困難でサプリメントを摂取することが多いそう。日本でも北と南で日照時間の長短にかなり差があるのだそうで。

私は太陽がないと落ち込んでしまうし、日光を浴びてさえいればどんなに落ち込むことがあってもまた前を向いて行けるような気持ちになれるから、北国には住めないだろうなと思う。


今朝、上手くいかないことがあって落ち込んでいたのだけど、マクドナルドで大きな窓からいっぱいのお日様の暖かさを感じて少し書き出す元気が出たところ。


「お昼もがんばろうね」


夫と毎日交わすLINE。


この後の一日もお日様が暖かだといいな